レイキティーチャーの独り言

レイキティーチャーが思ったことをつぶやいています

逆説的長寿論

(これは、長生きが無条件に良いことのように言われる現代の風潮に対する、アンチテーゼとして書いて見ました。かなり極端な言い方になっていますが、決して短命が良いと言っている訳ではありません。学校で例えるなら、留年を繰り返しなかなか卒業しない生徒のようにしてだらだらと精神的な学びを得ることも無く、動物のように生きる為に生きることに終始している人たちへの警鐘として捉えて頂けると幸いです。尚、ありがたいことにこのページに対するご意見を頂き、そのメールに答える中で、自分の考えに至らぬ点があること、言葉が足りないところが多いことも知ることができました。真にありがたい限りです。このようにして、私はティーチャーをすることによって学ばせて頂いていることを再確認させていただきました。ありがとうございます。この項の最後にそのときの返信メール文を掲載します。)

長生きが幸せであるように言われ、日本が世界の長寿国になって久しいですが、果たして、長寿が良いことと言うのは本当でしょうか?

イエスと言う人の言い分は、「死んだら元も子もない」「生きているから楽しいことがある」「人は生きるために生まれてきた」と言うことなのだと思います。
しかし、それらは絶対的に正しいことなのか、と言うことに疑問を持っています。

死後の世界がなく、まったくの無であるなら今生きていること自体無意味です。
どれだけ楽しもうが、どれだけ財産を築こうが、どれだけ人に尊敬されようが、死んだ後には何もありません。
今楽しんでいることも、自分と共にすべて消えてしまう幻です。
そのようなものを積み上げるために生きているのは虚しい事です。

もし、死後の世界があり、現世での行いの一部でも持っていけるとなれば、少しでも長生きして少しでも多くのことを積み重ねていきたいと言うのも分からないではありません。

しかし、精神世界の人生の捉え方からいけば少しばかり勝手が変わってきます。

それは、人が何故この世に生まれてくるのか、どこからやってくるのか?と言う前提が、一般の人とはずれているからです。

人は元々は魂だけの存在として生まれてくる前はありました。
そのときは肉体の持つ制限はなく、それこそ自由な存在でした。
しかし、自由であるがゆえに、居心地が良すぎて、その世界の外を知る機会が持てません。彼らは決してすべてを知った悟った存在ではないのです。あちらの次元で悟った存在となったときに、「自分」を残したまま居心地の良さを楽しんでいるのはおかしいのです。「自分」を残すとは外と内の境界線を残していると言うことですから。
その学びの機会がこの肉体を持って生まれてくることなのです。
自由でありすぎると自分が何かを思う機会すら無くしてしまいます。
自分が何かわからないまま、本当の宇宙のありようを理解しないまま自由を楽しむ存在となってしまいます。
我々は肉体をあえてもち、さまざまな制約のあるこの地球に生まれることにより、自分が何か、宇宙のありようはどういうものかを学びます。

それらを知るために与えられた課題は人によって違いますが、その課題を人は前世の因縁だとかカルマと呼んでいます。

人は一つの人生ですべてを知り尽くすわけではなく、何度も生まれ変わり少しずつ学びを積み重ねていきます。

人が死ぬのは、課題をクリアしたとき、または、肉体が時間切れとなったときです。
もう一つ、「死」そのものが課題であるときです。

ですから、多くの場合「死」は課題を終了しての卒業式であるとも考えられます。
または、時間が切れての次の課題との交換の時期がきたとも考えられます。
ならば、「死」そのものは不幸なことなのでしょうか?
ちょっと怪しいです。単に我々は「死」を不幸なもの、避けるべきものとしてプログラムされているだけかもしれません。
そうしないとみんな課題を放棄して学びが進まないからです。

そのように考えた時、長寿と言うのは学びがなかなか進んでいないことの現われでしかありません。
「長寿大国日本」つまり「落ちこぼれの魂の集まり日本」と言うことでしょうか・・・

前の戦争のときに多くの方が若くして亡くなりました。
戦争は不条理です。
しかし、そこで亡くなられた方々は、その出来事の中で多くの学びを得られた優等生だったのかもしれません。
個人的には戦争はできればない方が良いです。
もっと他の形で学びたいものです。

しかし、当時の日本は魂の学びの上では非常に優等生の方が多かったのかもしれません。
今のアフリカの貧困に喘ぐ方々もです。
我々は彼らから多くを学ぶことでしょう。
それは彼らが我々よりも学びの先を言っているからだと思います。

話が逸れました。

長生きをよしとする価値観とは、これは絶対的なものではありません。
長生きをするのではなく、今を懸命に生きること、命ではなく、この地上で与えられた時間を大切にすることが本当は求められているのだと思います。
ちょうどテスト中に時計と睨めっこしながら問題を解いている生徒と同じです。それが何故か、テストの時間を伸ばすことが正しいように思う人が出てきました。

与えられた時間を大切に・・・命を大切に・・・長生きをすれば素晴らしい・・・と言うようにいつのまにかすり替わってしまったようです。

では、何故学びの時間である人生に楽しみや快楽が与えられたのでしょう?
時々、スピリチュアルリーダーと呼ばれるような人の中には人生は楽しむためにある。楽しまなければ生きている価値がないと言うようなことを言う方があります。
でも、そうとは私には思えません。
楽しみは目的ではありません。それはおまけとして与えられるものです。
おまけが欲しくて、おまけだけのために頑張るようになっては本末転倒です。
おまけが用意されたのは、人間が迷わず学びを積み重ねていけるようにするためですから。

グリコのおまけが欲しくて、グリコを買ってはキャラメルを捨てるような人生は送らないで欲しいですね。

しっかりと卒業を目指して進んで欲しいです。

そして、最後に、何故レイキがこの地上にあるのか?
それは人を長生きさせるためではありません。それは一つの結果です。
本当は、その人の本来持つプログラムに戻るように修正を加えるためにあるのです。
多くの人がさまざまな情報や、エゴによってプログラムを書き換えて暴走しています。
このままでは現世で必要な課題が終了できないと言うとき、レイキをめぐり合い本来のプログラムへと修正していくのです。
言わばレイキは人生のバックアップです。
多くの場合は、それが癒しとして受け止められていると言うことに過ぎません。


以下が返信文となります

> <「長寿大国日本」つまり「落ちこぼれの魂の集まり日本」と言うことでしょうか・・・
> という文になにか引っかかるものを感じました。
> 学びがなかなか進んでいない、即ち学びが遅いことは悪いことなのでしょうか?競争社会
> において早いということは「優れている」と取っていいと思います。しかし、魂の学
> びの速さは学ぶ形態の差(短期、長期)ではないのでしょうか?
> だとすると、長寿大国日本は「ゆっくり学ぶことを課せられた魂の集まり日本」と
> 言っても、間違いではないと思います。

おお〜。
それは発想の転換です。
それも正しいです。
○○様はそのように捕らえてこの世界を見ていけばよいと言うことですね〜。

> ただし、魂の学びにとって「速いこと=優れていることでない」と定義したときの
1つ考え方になりますが、どうでしょうか?

その通りです。

> たしかに、無駄に長い時間を一生懸命生きていないより、短い時間を一生懸命生きる
> ことの方が良いとは思います。
> 一概に長生き=素晴らしいことではない と思いますが、だからといって 長生き=無駄な時間を多く過ごしているので悪いことという
のもとりにくいです。

人が何かを主張するように話すとき、どこかにその視点が必要になります。
私は元来教育畑の人間である為に、無為に過ごす時間、空白の時間に対して警告を発する癖がついています。
その流れの中で出た問題提起がこの文であると私なりに理解しています。

これは個人の好みではありますが、私としては課題が分かっているなら、さっさと済ませて退散すると言うのが好きです。
そうすれば座席の限られている教室の中で座席の取り合いをして、無闇に他の人といがみ合わなくても良いからです。
今の日本を見ていると、だらだらやって席が満席になっているのに退席しない、できない人が多いな、と感じるのですね。
単なる高齢化ならいざ知らず、そこに少子化がやってきています。
この状況は、適正な学びの速度より遅い為に起こっている現象であると捉えている訳です。
このような警告が出ているのに、何が問題か気付かない、気付けない日本の魂たちに訴えかけているとでもいえましょうか・・・

別にゆっくり学んでも構いませんが、それは事情が許す範囲でのことではないでしょうか・・・


> あと、アフリカの貧困に喘ぐ方々は我々より学びの先を行っているのはわかります
> が、例えば彼らをNGOなどの組織が助けていく活動は、支援活動をする人々の学びは進みますが、実際はせっかく早く学べる環境
にある短期間で学びを完了することを課せられた人)アフリカの人々の魂の学びの阻害をしていることになってしまっているのでしょうか?(魂の学びとしては見てみぬふりをしている方が良いのでしょうか?)


どちらとも取れます。
また、自分だけがさっさと学び終わればそれでよいと言う考えの魂もあれば、自分より遅い魂を引っ張りながら学んでいこうと言う魂もあることでしょう。
そう言う魂を持つ人がNGOなどで救われているのかもしれませんね。
つまりは支援する側が学びの邪魔をしているのではなく、支援される側が魂レベルで言えば、相手に合わせて立ち止まってくれているとも捉えられます。
または、支援されることで学ぶスケジュールを持っていることもありえます。

また、見て見ぬ振りをした方が良いケースもあると思いますが、手を差し伸べることがためになるケースもあります。


> 道徳的なところとぶつかってしまい上手く整理ができていなくてすみませんが、中村さんの見解を教えてください。


道徳と言うのは人間的世界の秩序を守るのがその役割ですので、精神世界の秩序とはずれる場合があります。
それは単なる色眼鏡であり、事実をそのままに見る道具ではありません。

人間の枠を超えた領域まで進もうと思えば道徳と言うものは、いずれは捨て去らざるを得ないかと思います。
そう言う私も、道徳的な枠にまだまだ漬かっていますが・・・。

感謝感謝感謝
なかむらかずひろ


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