レイキティーチャーの独り言

レイキティーチャーが思ったことをつぶやいています

魂は癒しを求めている・・・何の?

手にとった本に、「魂は浄化を求めている」と言うような事が書かれていました。
確かに、色々なカルマを背負って生まれ変わってきているとか言われているし、生まれ変わるのは過去世の悪因縁の清算のためのように言う人もいます。そして、全てを清算し終わると生まれ変わりの輪から逃れられると・・・。

しかし、一方でと言うかスピリチュアリズムの世界では、魂の向上の為にこの世に産まれてくるとか、この世には魂を楽しませる為に産まれてきているとかとも言います。

この言葉だけを見ていると、これらの見解はこの人生の捉え方において反対を向いているように感じてしまいます。

片方はまるで牢獄のように感じてしまいますし、片方は楽しい学校のようにも受け取れる・・・。

両方ともそれなりにこの世だけでなく、あの世のことも感じたり見えたりする人が体験したことをまとめて、伝えてくれているもののはずです。
それなのに何故これほど受け取るイメージがちがうのか・・・


それぞれ見てきた世界が違うのか・・・
そしてこの地上は、それぞれの世界からやって来た魂がちゃんぽんになって存在する場所なのか・・・

そんなややこしいことは無いだろう。
もしかすると、どちらも同じ物を見てきて、見てきた人の主観でそれを描写した結果がまったく違うもののように感じるものになったに過ぎないのではないのか・・・

どちらも、共通するのはある程度進むと、この地上に再び産まれてくることがなくなると言うこと。

それが過去の清算のためなのか,学びの終了のためなのかの違いだけ。

う〜ん・・・

もしかすると、魂の求める浄化とは悪業や悪因縁を拭い去ることではなく、さまざまな思い込みで曇ってしまった心の目をクリアにすることではないのか。

悪因縁の清算とは、曇ったレンズで世界を見ていたためにしてしまった過ちに気付き、魂の正しいありように気付くことではないのか?
つまり、決して罰を受けることを意味するのではない。

魂の学びとは、今ある魂の状態に疑問を抱かなくなった魂に、それが本来のありようではないことに気付き、あるべき状態になるようにすることではないのか?

どちらも、宇宙の真理に気付き、それに沿った存在の仕方を受け入れた時、目的を達成されると言うことではないのか?

そう考えればどちらの言い分にも矛盾はなくなるように思うのですが、どうでしょう?

決して、この人生は慎ましやかに質素に生きることが正しいわけでもない。
苦しみを自分に課して、耐え抜くことが正しいわけでもない。
無意味に罰を受けることでもない。
また、闇雲に楽しみだけを求めることを進めるわけでもない。
魂が喜ぶことをすることは、エゴが嬉しい、ワクワクすることをするのを進めることでもない。

どう言う感情を抱いて生きるかは、問題ではない。
感情だけに焦点を当てていると、エゴの喜びと魂の喜びの区別が付かなくなるから、一歩間違えると落とし穴が待っている。

あえて言うなら歓喜の笑顔ではなく、マリア様や仏様の微笑の向こうに真理は隠れているように私は思う。

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