レイキティーチャーの独り言

レイキティーチャーが思ったことをつぶやいています

生々流転 生き物は変化がないと生きていけない

生きているものは、絶えず変化をしているということはご存知だと思います。
体を動かしている、と言う意味ではありません。

体を構成する細胞は全てが刻一刻と変化を刻んでいるということです。

全ての細胞は呼吸をしており、呼吸とは生きて行くのに必要なエネルギーを作り出すための化学反応のことで、一つ一つの細胞がそう言うことをしています。

そして、細胞の寿命がくれば細胞は死に、新しく生まれた?細胞に取って代わられます。

生き物は例外なく、その繰り返しで、細胞レベルですら一瞬でもまったく同じ状態にとどまることは出来ません。
ずっと変化し続けるのです。
そして、変化できなくなった時、その細胞は死んだということです。

そう言う細胞一つ一つの集合体である、我々もまた一秒たりとも同じ状態でいることはできないのは言うまでもありません。

毎秒、毎分、毎時間、毎日、我々は自分の肉体を見て「変わらぬ自分」があると思っていますが、それは幻です。

マクロで見れば、確かにちょっと前とそっくりな自分がそこにいるのですが、ミクロで見てみれば、同じところなどありません。

何だか不思議ですね。

それなのに何故、同じような容姿でいられるのか?
それは単にDNAのプログラムが、それぞれのパーツをどのような状態で保ち続けるのかを決めているからです。
だから、部品がつぶれれば新しい部品に前の部品と同じような役割をさせることが出来るので、ほぼ同じ状態を保てるのです。

では、このDNAのプログラムは永遠に変わらないのか?といえば違います。
ちょっとしたことで、変わってしまいます。
例えば、細胞分裂のとき、強烈な電磁波や放射線を浴びた時などです。

すると、少しずつ同じ役割を引き継がせることが出来なくなって、だんだんと変化をして行くのです。
これを老化と呼んでいる訳です。

そして、細胞分裂をするプログラムが破壊された時、生き物は新しい細胞を作り出せなくなり、今ある細胞の死とともに確実に死んでいきます。

これは東海村の原発事故の被害者の方の経過を見ても明らかです。
最初は何の外傷も無いのに、日に日に体に変化が現れます。
そして、傷テープを貼った皮膚はテープとともに簡単にはがれ、その後に皮膚は再生されることはありません。
同じことが内臓でも起こります。腸の壁面は剥がれ落ち血を吐き、血便を垂れ流します。

つまり、体がそれ以上の変化を拒むと、その先には「死」が待っているのです。

これは、ヒトの心についても同じです。

ヒトの心はずっと動いています。
何かの興味の対象を探し続けます。
意識がそれをしていなくても、心は無意識に妄想にふけり、眠っていたら夢を見て、ずっと動き続けます。

ヒトの心が動かなくなった時、そこには自分はいません。
自分を認識することすらできないのですから。

無念無想を目指して瞑想をすると言うのは、そう言う精神的な死を体験することに他なりません。

我々はより良く生きたいと言って、様々な努力をするのですが、その先にあるものは「死」、更にその「死」の向こう側にある、輪廻からの解脱なのかもしれません。

しかし、最近の傾向を見ていると、そうともいえないようですね。

悟りや解脱ではなく、「覚醒」と言うものがもてはやされているようですね。
これは、変化が止まるのではなく、全ての変化を感じ取り生きることを謳歌するような意識の拡張のようです。

これは、「死」とは反対方向に進んで行くものだと思うのですが、どうも、その方向が素晴らしいと唱えている人たちが胡散臭い。

人々の「欲」を刺激し、「欲」を推進力にして出し抜いていきましょうと言っているように聞こえてならないのです。

確かに生きている以上、「死」を礼賛するよりかは「生」を謳歌する方が気楽で刺激的です。

ただ、「死」は単なる状態の変化であり、誰にでも訪れるもの。
それを避けることはできない以上、それすら楽しめねば、結局は「苦」を紛らわせるための「楽」であり、「苦」に近付くための「楽」でしかなくなるように思うのです。

しかし、「死」を終末ではなくただの変化の一つと捉えれば、それは避けるべき物ではなく、新たな展開のために喜んで受け入れるべきものとなります。

その代わり、解脱は永遠に訪れず、永遠の命の存在となるのですが・・・

それが正しいのかどうなのかは又別問題です。


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