レイキティーチャーの独り言

レイキティーチャーが思ったことをつぶやいています

人生は楽しむためにあるなんて馬鹿なこと言うな

自己啓発系の本や柔らか系の精神世界本に時々見かける生きる目的「人生は楽しむためにあるんですよ」って言葉を見ていると、気持ちが悪くなる。

何故そんなことを無責任にいえるのか?
そもそも、どうして人間が存在するのか?
また、創造主というものが存在するのか?(いるとしての話だけど)

それをきちんと理解しての話かといつも疑問に思っている。
とくに、そういう人たちは創造主が活動をしている理由は何だと思っているんだろう。

よく、そういう人たちが神様は人が幸せになるのを見るのが楽しみだから、人は幸せにならないといけないとか言う。

しかし、神を楽しませる必要がどこにあるのだろうか?
なぜ神は楽しまないといけないのだ?

そんな自分の欲求を満たすためにいそいそと活動をしている神が、われわれの存在をつかさどっていると言うのか?

それなら、我々は神の満足のために働く奴隷じゃないか?
神の満足のおこぼれをいただいて幸せを感じている単なるマゾだ。

宇宙と言うのはそんなエゴに満ちた場所なのか?
なんだか、うんざりしてきたぞ。

もともと、神も人間も必然があって生まれたものではあるが、目的があって生まれてきたのではない。
単に、生まれて、生まれた以上は消滅に向かって存在し続けるだけだ。

ただ、精神の働きの無いものなら消滅に向かうその時間の流れも苦にはならない。

しかし、精神の働きを持ってしまったためにその時間の流れの中にさまざまな感情を抱くようになってしまったのが不幸の始まり。

その感情、特に苦しみを乗り越えて無事に消滅していくために、仮の目的を持つと言う方便を人は発明したに過ぎない。

その目的の一つが

「人生は楽しむためにある。だから人は人生を楽しむために工夫をしなければならない。また、楽しめる自分を創ってくれた神様に感謝しなければならない。」

と言うものだ。

しかし、この目的が消滅までの過程に混乱をもたらした。

本来消滅するとは業をすべて解消することだ。
業を解消するとは新しい出来事が発生しないようにすると言うことだ。

そのために、自分は消滅し、自分に付随する苦しみも人にかぶせてしまう苦しみも無くなる。

しかし、人は人生の目的の達成のためにエゴをむき出しにして、新しい業を次々に作り出すようになってしまった。
深く考えることも無く、安易に理解した振りをした結果だ。

先ほど言ったように、人の生きる苦しみは精神を持ったことに由来する。
精神の働きと言うものも、突き詰めれば単なる機械的な反応の積み重ねだ。

ものの運動や存在を司る物理法則と同じように、精神を作るエネルギーの振る舞いを司る法則がある。

その法則にしたがって、精神エネルギーは動き、感情などの現象を見せる。

そして、その結果として、精神エネルギーの働きとして「自己」と言うものが発生し、それは次々と新しい自己を生み出してきた。

これは、あくまで機械的な反応に過ぎない。
心も十分に機械なのだ。

人生の目的は、その機械がたまたま生み出した虚構でしかない。
人生には目的など無い。

あるのは自然の流れの先にある消滅だけだ。

人生の目的として楽しむのではなく、どうせ生きるなら無くなるまで楽しめる方がいいじゃないか。

そう考える方が、下手に肩に力が入らずに済むと思うのは私だけだろうか・・・。

自然な流れを楽しめば、新たな業も作りにくいだろう。
結果楽に無くなって行けるというものだ。

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