レイキティーチャーの独り言

レイキティーチャーが思ったことをつぶやいています

アナログとデジタル

アナログとデジタル
この言葉に最近取り付かれています。
何かにつけて、アナログ的、デジタル的と言う線引きをしていますが、この線引き自体がデジタル的ですね。

どう言う時に私がデジタル的と申し上げるかと言いますと、物を見て分析していくとき、理解していくときに線引きをして、○○であるもの、そうでないもの、と区別をしていったり、全体を理解する為にそのパーツ一つ一つ確認して全体を組み合わせなおすような理解をするときに、そのように感じます。
この思考では、どんどん観察の対象を細かく線を引いていって分けて夫々を理解していこうと言うことになりますが、どれだけ分けていったとしても、それと隣との間にははっきりと段差としての違いがあります。言わば白か黒かの違いが線のこっちとあっちではできてしまいます。それでは線引きされたものを一つのパーツとして見る場合には、それは○○だとは言えても、結局何処までいっても、それは何でできているかには答えることはできません。
また、細かに分けてしまったとき、その全体像を捉えきる為には、分けたものを再構築するのに非常に時間が掛かります。これはコンピューターゲームがリアルになる為に画像にこだわり、動きにこだわり、パラメータの種類にこだわることでどんどんコンピュータの性能を必要とするようになることからも分かるかと思います。

それに対して、アナログ的と申し上げるのは、自他一如、つまり全体が切れ目の無い一つのものとして存在していると捉えるものです。自分の内と外との境界が曖昧なグラデショーンとして夫々の存在を捉え、夫々の存在が重なり合うようにして相互に関係しあうようにアナログ的に捉えると見えてきます。あたかもそれは絵画中に描かれた対象物であり、それを取り出すと絵画がだめになり、取り出したものをいくら眺めてもそこには美しさはありません。絵画が全体のハーモニーの中で美しさをかもし出すように、アナログ的な見方ではあるものだけにフォーカスした時点で、全体の調和は崩壊します。
そして、部分に注目した時点で、アナログからデジタルへと物の見え方は一瞬にして変化してしまいます。
ここから、ただ漠然と何にもフォーカスをせずに眺めている状態、ある意味無意識に情報を受け入れている状態は、アナログ的に情報を処理していると言えますが、何かに意識を向け、それ以外のものと区別をした時点で、瞬時に顕在意識の世界、つまりデジタル的に物を処理するように頭は切り替わります。
人は顕在意識、潜在意識の間を行ったりきたりしながら、デジタルアナログを半自動的に使い分けているように思えます。

レイキを理解する際、デジタル思考では全てを理解することはできないでしょう。一つ一つのテクニック、一つ一つの現象を、レイキエネルギーと言うものがある、その性質は4次元以上の属性を持ち、縦横高さ時間の4つの時間軸を同列のものとして伝播する存在であり、その作用は作用する対象の持つプログラム(運命のベクトル?)のスムーズな実行を促す働きを持っている、と言うことを前提として、その理由には触れないと言うことで、説明をすることは可能ですが、では、何故、その性質を持っているのか、その性質を決定する要素は何か?と言うことを分析してとことんまで見つけ出すことは、円周上を走って、ゴールを探しているのと同じく、不可能なことだと言えます。

そこで、アナログ的な捉え方で、レイキを把握すると言うことが必要になってきます。それは、レイキだけを取り出して、あれこれと分析するのではなく、レイキのある空間、つまりレイキの作用している「絵」全体を捉えることで、レイキとは何かをつかむのです。
おそらくそれを言葉にしようとすると、それは正確なレイキの全体を表現することにはなりません。どうしてもレイキの一面のみをあらわすことになるでしょう。そして、そう言う表現をいくら集めてもレイキの全体にはなりません。
レイキの作用するその「場」そのものをレイキとして捉え、感じることでのみレイキの全体像は見えてくるのではないでしょうか?
レイキはエネルギーであり「場」と一体化することでのみ我々にとっては存在していることを捕らえられるものだと思います。

そして、こう言っていることで既に、レイキの本質の一部しか話せていない自分がいます。

それでも、言葉にする努力は凡人には必要です。
とことん考え、頭に負荷を与え、行き着くところまで行き着くことで、デジタル的思考が外れ、アナログ的思考を鮮明な意識を保ちながらも体感することができるのです(ここに瞑想を入れることは非常に有効です)。

確かに瞑想だけで、直接デジタル的思考を外してしまうと言う方法もありますが、これは近道に見えて実は結構大変です。玉ねぎの薄皮をめくるように今までの思考パターンをはがして行き、さまざまな障害を乗り越えても、最後にはめくる薄皮を全部めくってそこからもう一歩踏み込んでいかねばなりません。

また、行動の中で一瞬そう言う状態に入ってしまうこともあります。全てが光に包まれて見えるような瞬間ですが、偶然にそうなった人でそれを持続させたり、意図的にその状態を再現できる人は非常に稀です。

レイキヒーリングの中でそのような状態に入る人が稀にいますが、それをもとに戻ってデジタル思考で評価し、記録した人は後が大変です。
レイキの一面を取り出して、それがレイキそのものと思うのですから、その後にレイキの全体像をつかむことが難しくなってしまいます。
そう言う人が、パワー信仰や、神秘体験重視のエネルギーワークへと逸れていくように思います。

それも疲れ果てるまで行くところまで行けば、元の道に戻ってくるものだとは思いますが・・・

戻る

Copyright(C) 2014 おひさまレイキ